空調の効いた地下鉄駅構内で聞こえてきた軽い足音に顔を上げた副都心は、西武有楽町の小走り未満で近付いてくる姿に気が付いた。
周囲には有楽町の姿は無く、副都心だけ。
すると、彼の目的は自分だということになるが、向こうから近寄ってくるなど比較的珍しい事だと言えるだろう。
「
――― 副都心!」
「こんにちわ、西武有楽町さん。どうかされましたか?」
声を掛けてきた相手に合わせるように、副都心は膝を折った。
それは、いつの間にかクセになった動作。
別に意図しているわけではないとはいえ、覆せるはずもない身長差で西武有楽町を見下しているように思われても困る。
ただでさえ、彼には懐かれているとは言い難いのだから。
だが、声を掛けてきた西武有楽町は、どことなく不安そうな表情で副都心を見返した。
彼がこんな表情を見せるなど、思い付くことなど一つしかない。
池袋絡みで何かあった、としか。
「実は、池袋が各駅を見回ってくるって言って、出てしまったんだが……」
その内容だけを聞く分には、問題は何もない。
だが、今の状況を考えると、それは少しばかり危険を伴うように思うのだが。
今年の夏は改めて言うまでもなく猛暑だ。
毎日のように熱中症で何人も搬送されたと、ニュースにもなっている。
普通に見回るだけならともかく、そもそも西武のあのコートを着て歩くこと自体に無理があるに違いない。
副都心自身があまり外の駅に出向かないので、実際に池袋があの制服を着て炎天下の中で業務に就いている姿は見ていないのだが。
とはいえ、彼が暑さでだらけているところなど想像が付かない。恐らく無理して涼しい顔をしているのだろう。
西武有楽町が自分の元に来たのは有楽町が近くにいなくて仕方が無く……だろうが、頼られたのであれば悪い気はしない。
「……解りました。僕が少し様子を見てきます」
そう言って歩き出すと、西武有楽町が後を付いてこようとしたので、副都心は振り返って声を掛けた。
「西武有楽町さんは外に出られない方がいいですよ、暑いですから」
そう言われ、若干不満そうに見えはしたものの、割合素直に西武有楽町は足を止める。
彼もまた、いつもの西武のコートを着てはいるが、基本的に地下にいるのでさほど問題は無いだろう。第一、その辺りは池袋が配慮しないわけがない。
もしかしたら、外に出ないように言い含められているからこそ、副都心の忠告に従ったのかも知れない。
――― 地下駅から地上駅へ。
目が醒めるような、絵に描いたような晴天。
池袋線の先頭車両に乗って各駅を見渡していた副都心は、求める姿をさほど捜すまでもなく見つけた。
何しろ、あのコート姿なのだ。視界に入りさえすれば、否応なく気付く。
車両から降りた副都心は、ホームにいる池袋の元へと近付いた。
微かに風が流れているものの、それ自体はまるで熱風。
池袋の金色の髪と青いコートのコントラストは一見涼しげに見えるけれど、彼の体感温度は相当なはずだ。
「池袋さん」
そう声を掛けると、ホームから線路を見下ろしていた池袋が顔を上げて副都心を見た。
いつもの通りの、彼。だが、この状況でいつも通りというのが異常だろう。
「……何だ、お前か。いつもはロクに地下から出て来ないくせに、こんなところに何の用だ?」
軽い嫌味を感じないでもないが、いちいちそれに反応しても仕方がない。
再び線路へと視線を向けた池袋の気を惹くように、副都心は問い掛けた。
「こんなところで池袋さんが何をされているのか、気になりまして」
「点検だ」
「こんな暑い時間にわざわざですか?」
「……だからだ」
池袋はあっさりそう答えると、そのまま線路を見ながらすたすたと歩いて行く。
どうやら、池袋は線路が気に掛かるらしい。
そう言えば、何処かでレールが厚さで曲がったというニュースを聞いたような気がする。
地下鉄である自分にはあまりピンと来なかったが、池袋にとって見れば重大な懸念事項なのかも知れない。
――― だけど。
「待ってください、池袋さん」
先を行く池袋の元へ小走りで近付くだけでも、軽く呼吸が上がる。
この暑さは汗が流れるだけで済むものではなく、呼吸が苦しくなるほどだ。
「……別にお前が付き合う必要は無い。日頃、冷房完備の駅で働く地下鉄には厳しいだろう。熱中症になる前にさっさと戻れ」
淡々とそう言うが、そのコート姿の池袋に言われたところで説得力など何一つ無い。
一体、どんな我慢大会だというのだ。
「そのお言葉、そっくりお返しします。そんな格好で彷徨いていたら熱中症になりますよ?」
薄い笑みと共に軽口めいた言葉を掛けながら、副都心は池袋の顔色を窺った。
特に赤いようには見えないが、どちらかと言えば青白いかも知れない。
青いコートの照り返しのせい、ならばいいのだが。
どうせ、副都心が何を言っても聞き入れはしないだろう。事実、池袋は返事することなく、そのままホームの屋根が無いホームの先端へと歩いて行く。
軽い溜息を一つ付くと、副都心は池袋と反対に、改札の方へと向かった。
――― 副都心がとって返して来たとき、池袋はホームの端で踞るようにしていた。
具合が悪くなったのかと一瞬驚いたが、ただ線路を注視しているだけのようだ。
近付く副都心に気付かないのか、池袋はずっとそのままの姿勢と保っている。
あともう一歩というところまで近付いてやっと、彼は顔を上げた。
「……何だ、それは」
その何処か怪訝そうなその表情は、日差しを遮った影の下にある。
「そこのコンビニで調達してきたんですよ。雨傘ですが日よけにはなるでしょう」
――― 池袋に傘をさしかける、なんて、それは何処かで見た光景だけど。
あの時は雨が降っていたけれど、今日は。
膝を折った体勢のまま、池袋は傘を差し掛ける副都心を見上げた。
そして何かを言おうとして、そのまま黙って再び視線を足元へと落とす。
礼を言おうとしたのだろうか。
軽い溜息めいた吐息を付く池袋が日陰から出ないようにもう一歩彼へと近寄ると、ぼそりとした言葉が聞こえてきた。
「近づくな、暑い」
「そうは言われましても、僕も熱中症で倒れたくはないもので」
池袋へ傘を差し掛けてはいるものの、副都心もちゃんとその影の中に収まっている。
コンビニで売っている程度の傘だから、さほど大きなものではない。
必然にお互いの距離は近くなる。
どうも、池袋はその至近距離で感じる体温が不快だと言いたいらしい。
いつもなら意図的に近付いたところで何の反応も示さないクセに。
その珍しい池袋の態度に、副都心は腕に通したコンビニ袋の中からスポーツドリンクのペットボトルを取り出して、彼のコートの襟に遮られた首筋へと押しつけた。
「……な、にをっ!」
慌てて副都心を振り返りながら見上げたその表情に、自然と笑みが浮かぶ。
「差し入れです。ちゃんとこまめに水分を取らないと熱中症になりますからね」
本格的に怒り出す前にと、副都心が首元から池袋の手の中へとペットボトルを落とすと、割合素直に受け止められた。
「さあ、いい加減戻りませんか?」
「……お前一人で戻れ」
明らかに不機嫌そうにそう言い放った池袋の様子に、副都心は少しだけ訝しむ。
先ほどよりずっと、余裕が無いように見えるのは気のせいか?
日差しを遮っても、その顔に先ほどよりもずっと赤みが差しているように見える、なら。
「そう言わずに」
副都心がそう手を差し出すと、池袋は大きく顔を背けた。
余裕がないからこその、リアクションとしか思えない。
多分、本当に辛いのではないだろうか。
「……西武有楽町さんが心配されてましたよ。ご自分で探しに来られそうだったので、僕が来たんですが」
その名前を出されると、池袋としても無下な態度を取りづらいらしい。
促すように、行きましょう、と再度手を差し出したのだが、池袋としても素直に頷くのは抵抗があるようだ。
このままでは埒があかないと、副都心は少しばかり強引に、池袋の二の腕を掴んで引き上げた。
「な……っ」
抵抗らしい抵抗を見せず立ち上がった池袋の腕はコートを通してすら、熱い。
辛いはずなのに、妙なところで意地を張るのは非常に池袋らしいけど。
いっそのこと、倒れてくれたら話は早いか。
抱き留めて、連れて行ってしまえるのならば。
――― だけど。
副都心は手にしていた傘を池袋の肩に預け、その柄を片手に握らせた。
そして、空いている彼の手を取る。
「……さあ、戻りましょうか?」
その言葉に微かに頷いた後、池袋は日差しを遮るものを持たない副都心へと、預けられた傘を差し掛けた。
その行動に驚いて副都心が池袋を見返すと、何の躊躇いもない言葉が向けられる。
「日除けもなくこんなところにいたら、熱中症になるんだろう?」
――― 本当、この人は。
言葉を返す代わりに、副都心は池袋の手を引いてゆっくりと歩き出した。
the END
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The first up_date 2011.05.27