――― 池袋は微かな笑みを浮かべている。
普段なら、それは有楽町にとっても喜ばしいことのはずだった。
だが、その日だけは特別だから。
「……無理をするなよ」
そう呟く有楽町の言葉など、まるで理解していないかのように、彼はいっそ綺麗すぎるほどに微笑んだ。
「無理などしていない」
自覚など何一つなく、笑うという行動の意味すら変わってしまいそうで。
嬉しいから、
楽しくから、
笑う。
そうであるべきなのに。
「お前が、少しは笑えと言ったんじゃないか」
「無理してまで笑うなら、それは違う」
「……笑えと、仰るはずだから」
「だから、無理をするなと――― 」
「お前じゃない」
ふと、笑みを抑えて、何処か透明さを感じさせる眼差しで池袋は有楽町を捉えた。
確かに自分は、彼へ少しは笑ってくれ、と言った。
だが、他の誰にそう言われたのだと……?
そう疑問に思ったとき、不意に有楽町は答えに辿り着いた。
彼が自分よりも誰よりも、その言葉を受け入れるべき人間など一人しかいない。
「お前もそう言ったが、お前じゃ――― ない」
じゃあ、自分の言葉だけだったらどうなのだろう。
無理をするなと言いながら、とても矛盾した願いを持つ自分。
自分のために無理をするなら、それは。
「私が笑えば、誰かが返すから。だから笑え、と。きっと、そう仰るから……」
それはとても淡く、春に霞むような微笑み。
だから、有楽町も少しだけ笑みを返した。
――― 彼の望みを叶えるために。
the END
☆The first up_date 2009.07.05
――― 今の内、少し休んでおけば?
西武池袋へそう声を掛けたのは西武秩父だった。
確かに、昨夜はトラブル対処で遅くなり、ろくに寝ていない。
朝のラッシュは何とかやり過ごしたものの、調子が良いとは言い難いのは事実だ。
「昼の空いてる時間なら、俺が面倒見とくからさ」
「……じゃあ、済まないが一時間くらい、頼んでも良いか?」
「一時間と言わず、二時間でも三時間でもいいぞ。何かあったらたたき起こしに行くから安心しろ。あ、でも仮眠室のドアはちゃんと閉めておけよ」
その辺りは秩父は信頼できる。自分で処理できないと判断したら、変に気遣うことなどせず、池袋を起こしに来るだろう。
秩父に後を任せた池袋は、休憩室の奥にある仮眠室で微かな溜息を付く。
ドアを閉めろと言われたが、閉めてしまっては外の気配が解りづらいような気がして、少しだけ開けておいた。
コートのポケットに入れてあった携帯電話だけをベッドサイドのテーブルに置く。
テーブルでうたた寝などするより、ある程度しっかり睡眠を取った方が良いだろう。
そう頭で考えるよりも早く、池袋はベッドに横になると滑り落ちてゆく意識から手を離した。
「――― 池袋?」
有楽町は遠慮がちにそう声を掛けてみたが、相手から答えは返ってこない。
場所は西武の休憩室の奥。仮眠も出来るようにと準備されている部屋なのだから、池袋が仮眠を取っていても何一つとしておかしなことはない。
ただ問題は、その寝姿が少し無防備すぎることだ。
関係者以外に立ち入りはしないだろうが、それでも。
昨日は彼の路線内でトラブルが発生し、その対応に追われていたのは知っている。
メトロのマニュアル上、少々手厳しい対応を取らざるを得なかったので、日を改めて顔を出しに来てみたのだが。
池袋は軽く背を丸め、薄手の毛布を抱き込むように眠っている。
その寝姿は西武有楽町とよく似ていた。
警官心のない表情で眠る彼は、何処か安らいだように、微かな微笑みすら浮かべているようで。
その笑みが、少しだけ有楽町を落ち着かなくさせる。
いつも見せる彼の姿とは違って、眠る彼の姿は落差がありすぎた。
――― そんなに疲れているのだろうか。
だったら、ちゃんと宿舎に戻って寝た方が良いのではないだろか?
ベッドの側にあるロータイプの椅子を避け、眠る彼の枕元へと跪くように有楽町は身を寄せる。
起きる気配なんか何処にもない。
こんなんじゃ、どんな悪さをされても文句など言えないだろうに。
「ったく、悪戯するぞ?」
軽く手を差し伸べて、瞼に掛かる前髪をそっと避けてみる。
見るべきものを失った瞳が、その奥にある。
だけど、まだもう一つの瞳は――― 。
「一体どんな悪戯をするつもりだ?」
不意に目を開けて、彼は少しだけ笑みを含んだ眼差しを向けてきた。
「……何だ、タヌキか」
彼が自分を見ているという、それ自体がすでに奇跡。
「お前がうるさいから目が覚めたんだ」
「そりゃ済みませんね。もう少し寝てろよ。そしたら、悪戯してやるから」
何も出来ない癖に。
有楽町は口先ばかりの自分に自嘲した。
そんな想いを見越しているのか、池袋は自分に差し出されていた指先を避け、行動を制限させるように有楽町のシャツの袖口を掴む。
「出来るものなら、やってみろ」
そう呟いて、再び瞳を閉ざした。
何も出来やしない。そう思っているのだろう。
だけど。
「……後悔するなよ?」
有楽町は半ば憮然と呟いてみたものの、微かに袖口に掛かるその重さに逆らえるはずもなさそうだ。
02
「……失礼します」
メトロからの資料を手にして、そう声を掛けた副都心に返る言葉はない。
さて、どうしようかと部屋を見渡してみれば、奥にあるドアが微かに開いているのに気付いた。開いている以上はさほど問題はないだろうと覗いてみれば、そこには意外な光景があった。
ベッドの上で眠っているのは、池袋その人に違いない。
確かに、この部屋で仮眠を取ることがあるとは聞かされていたけれど。
日頃が日頃だけに、そんな無防備にも近い態度を見るのは初めてだろう。
戸惑いよりも好奇心の方が先に立って、副都心はそっと池袋の元へと近付いた。
枕元にあるロータイプの椅子を避けて、起こさぬようにと息を殺して覗き込んでみるが、起きる気配は全くない。
あまり近付いたことのないその距離に、副都心は微かな吐息を洩らす。
――― その意図を持って観察したことはないが、充分に鑑賞に耐えうる容貌と言えるだろう。
言葉を交わしている際には、やや険が強いと感じることも少なくないが、意識を手放してしまえばそれを感じることはない。
そもそも愛想は良いのだ、客に対しては。
その愛想の良さが、自分たちに向けられることはほとんど無いのだが。
「お疲れのようですね?」
ぽつりと副都心は呟いた。
今、池袋がこうしているのは、昨日のトラブルの疲れを引きずっているためだろう。
だが、そもそも以前よりは格段にトラブルが増えたはずだ。
それは自分が彼らと接続してから。
「――― 済みません」
聞いていないだろう相手に、素直にそんな言葉が向けられる。
あまり素直にしてしまっては、ますます子供扱いされてしまうだろうから、こんな時ぐらいにしか言いたくないのだけれど。
「殊勝じゃないか」
微かな笑みと共に、そう池袋は呟いた。
「……起きてたんですか?」
寝たふりだなんて、それはずるい。
だけど、それに気づけなかったのは自分の方だ。その寝顔に気を取られていただなんて。
「何か用があって来たのだろう?」
微かに起き上がりそうな気配を感じたので、その肩をそっと押さえる。
「いえ、特には。……お疲れのようですから、休んでください」
副都心は手にしていた資料を彼の視界に入らないように隠した。
それも彼には見透かされていそうだけれども。
「ああ、悪いがもう少しだけ休ませてもらおう」
意外にも、池袋はそう言ってすぐに目を閉じる。
やはり疲れているのか、いつものように無理をしようとしないのが、少しだけ意外で、少しだけ嬉しいような。
「お休みなさい」
副都心はそう呟いた。
03
――― 昨日の件を気にして立ち寄ってみれば、この有様だ。
微かな寝息を立てる池袋を見下ろして、西武拝島は微かな溜息を付いた。
昨日のトラブルを引きずって、ろくに休めていないのだろうと思ってはいたのだが。
ここまでしっかり休んでいるということは、不在を秩父にでも預けているのだろう。
ならば、いっそのこと一日休んでしまえばいいものを。
「こんな半端な格好じゃ風邪を引くだろうが」
すぐにでも起き出せるように、と思っているのか、池袋はコートを着たままベッドへ横になっていた。
一応申し訳程度に毛布を掛けてはいるものの、それでは少し寒いのではないだろうか。
「拝島?」
半覚醒の池袋の声に、拝島は浮かべかけた苦笑を押さえ込み、不機嫌そうに口を開いた。
「寝るのは良いがコートぐらいは脱げ。皺になるだろうが」
池袋が返事をする前に彼の手を取って起き上がらせ、半ば無理矢理コートを脱がす。
そして、シャツだけになった池袋の額を軽く押し、もう一度ベッドへと転がせた。
「……乱暴だな」
「お前がちゃんとしてないからだ」
文句を言いながらも、拝島は横たわった池袋の肩口へと毛布をしっかりと掛ける。
「少しぐらい暖かいからって油断するな。風邪でも引いたら後がめんどくさいだろう」
池袋はそれに答えず、微かな笑みを浮かべて拝島へと頷く。
「全く……。あと、ドアはちゃんと閉めておけよ」
拝島の小言に返事は返らない。どうやら、そのまままた意識を手放したようだ。
まあ、ドアを開けてあるのは何かあったらすぐに連絡しに入ってこれるように、とのことなのだろうが。
だが、余計な顔出しをするヤツらがいないとも限らない。
こんな無防備な寝顔をヤツらに晒すなど、不用心にも程がある。
そもそも半覚醒の池袋は日頃との格差がありすぎて、タチが悪いのだ。
池袋のコートを片手に、拝島は深々と溜息を付いた。
04
「……池袋?」
ドアをそっと開けて顔を覗かせたのは、西武有楽町だった。
池袋の姿が見えないのを不思議に思っていたところ、秩父から休憩室で寝ていると聞いたのだ。
特に具合が悪いとかじゃないから、とは言われたけれど、西武有楽町だって池袋が日頃から多少のことを我慢してしまうのを知っている。
だからこそ、余計に何処か辛かったりするんじゃないだろうかと、不安に思ってしまう。
「池袋、大丈夫ですか?」
少し離れたところから、小さく呟いてみる。
近寄ったらきっと起こしてしまう。それが解っているから。
だが全く起きる気配を感じさせない池袋の枕元に、西武有楽町はそっと足音を殺して近付いた。
いつも西武有楽町に向けられる優しい瞳も、今は静かに閉ざされたまま。
池袋の寝顔など、ほとんど見たことがない。
いつだって、自分の方が彼に見守られているのだから。
だから、そうやって眠っている池袋を見るのは、微かな不安と同時に、何処か嬉しいような気がして。
今ならば、池袋を守れるのではないか、と。
西武有楽町は枕元にある椅子に腰を下ろして、眠っている池袋のすぐ近くに頭を置いた。
側にいる、ずっと。
誰よりも、ずっと。
毛布から出ていた池袋のシャツの袖を、西武有楽町は小さな手で握りしめた。
ふと人の気配に池袋が目覚めると、見慣れた姿がそこにあった。
栗色の細い髪。小さな頭。
どうやら、西武有楽町がベッドサイドの椅子に座り込んだまま眠ってしまったらしい。
そっと起き上がろうとしたのだが、手首に掛かる力に思わず苦笑した。
袖口を掴む小さな手をそっと外し、西武有楽町を起こさないように静かに起き上がる。
覚醒を促すようにぐるりと視線を巡らせてみると、ベッドサイドのテーブルには眠る前に置いた携帯電話と、きちんと折りたたまれたコート、見慣れたメトロのマークが入った封筒があった。
拝島に怒られながらコートを脱がされた記憶はあるし、副都心が顔を出したのも覚えている。だが、自分の記憶の曖昧さからすると、どうやらろくに話をする間もなく再び眠り込んでしまったらしい。
そして、微かに揺らぐ記憶には、もう一人の来訪者があるのだが。
コートを手に取り、無意識にチェックしようと折りたたまれていた携帯電話を開ける。
次の瞬間、自分が設定したわけではないメール作成画面に並ぶ文字を読み、池袋は口元に微かな笑みを浮かべた。
「こんなのものが悪戯になるか……馬鹿が」
――― 悪戯されたくなければ、ドアぐらいちゃんと閉めて寝ろよ!
the END
☆
The first up_date 2009.06.07
さて、と有楽町は軽い溜息を付いた。
駅周辺はイベントの浮ついた空気に包まれている。
毎年繰り返しているイベントなのに、よく飽きないものだ。
――― 確かにそう思っていた、自分も。
メトロの仲間内での、わざとらしいチョコレート菓子の応酬などには慣れていたが、今年ばかりは話が違う。
西武有楽町のついでとはいえ、池袋から手作りのチョコレートケーキを貰うことになろうとは、一体誰が予測できたものか。
驚かずにはいられない。
手作りの、というより、池袋が、というレベルでの驚き。
また、それを喜んでしまっている自分への驚きもある。
まさか、自分がそんなことに喜ぶことになろうとは、だ。
別に流行っているという、逆チョコとやらに乗っかったつもりはないが、結果的には西武有楽町に便乗して、有楽町自身も池袋にチョコレート上げたことになっている。
とはいえ、西武有楽町には自分や副都心が出資したことは、内緒にするようには言ってあるのだが。
果たして、池袋はそれに気付いているだろうか?
少し考えれば解るはずだ。バレンタインデーというイベントを知らなかったはずの西武有楽町が、あそこまで周到に準備できたはずがないのだから。
だが、池袋がそこまで考えるかどうかが問題だ。
そもそも、池袋は西武有楽町にホワイトデーに何か用意しているのか。
いや、今一番の問題は、自分が池袋に何を返すべきかどうか、だろう。
単純にケーキをご馳走になったお返し、という趣旨で軽く考えればいいと解っている。
とはいえ、下手にお返し、などと言ったところで、池袋の性格では突っ返される可能性も低くはない。
そういう意味では、先ほどの副都心の意趣返しは上手かった。
毎年繰り返される単なるイベント、としては強烈すぎる出来事だろうから。
決して、いい意味ではないけれど。
――― じゃあ、自分はどうするべきか?
有楽町はもう一度溜息を付くと、ホワイトデーで賑わう特設会場を横目に、デパートのエスカレータを上る。
勿論、池袋西武の、だ。
それ以外の場所で購入した物を池袋に渡したところで、そう簡単に受け取るわけがないのだから。
有楽町はそんなことを考えながら1階1階のフロアをぐるりと見渡しながら上っていった。
食べ物、とかは好き嫌いがあるだろうし、やはりちょっとつまらない。
深い意味など無い、ちょっと思い出したから。
その程度がちょうどいいはず。
だけど、意味が全くない訳じゃない、から……。
結局、いいアイデアがないままに、有楽町は雑貨を取り扱うフロアまで来てしまった。
何か無いだろうかとぐるりとフロアを見渡したとき、視界の隅に見慣れた何かが過ぎる。
見間違えるわけがない、特徴的なあの青いコート。
だが、相手の方は有楽町に気付くことなく、階段を下りて行った。
確かに、あの後ろ姿は池袋だと思うのだが、一体何処に用事があったのだろうか。
有楽町は好奇心につられて、池袋が立ち去ったエリアへと足を向けた。
――― キャンドル?
そこには数多くのキャンドルが置かれている。
最近、流行っているアロマテラピーに乗っかったのか、アロマキャンドルなども数多く置かれていた。
アロマテラピー、とかいう柄じゃない。けど。
その炎の揺らぎに、何処か安らぎを覚えるのは少し解るような気がする
数々のモチーフの中で、ふと有楽町の気を惹く物があった。
雪の結晶の形をした、掌に収まるぐらいのキャンドル。
付けられたタグの解説を読めば、バスタイムに使用される水に浮くキャンドルらしい。
水に浮かぶはずのない雪の結晶。
炎を灯せるはずのない雪の結晶。
その矛盾にふと、笑みが浮かぶ。
――― そうだ、あの笑みは揺らめく炎と何処か通じる。
有楽町は溶けることのない雪の結晶を手に、キャッシャへと向かった。
「……池袋!」
夕方のラッシュが始まる直前、有楽町は池袋へと声を掛けた。
終業後、改めてなんてことをするには少しばかり気が引けるので、ちょっとした仕事の合間ぐらいがいいだろうと思ったのだ。
すると、意外なことに池袋の方も有楽町を見て「ちょうど良かった」と呟いた。
「貴様に渡しておこうと思っていたから」
思ってもいなかった反応に有楽町が咄嗟に言葉を返せないでいると、池袋はコートのポケットから小さな袋を取り出した。
それは、ちょうど掌に収まるぐらいの。
「先月、西武有楽町の買い物に付き合ってくれたそうだから、その礼だ」
素直にバレンタインデーといえばそのまま受け流せるものを、池袋はわざと違う言い回しを選んで告げる。
黙ったままの有楽町が袋の中から取りだしたのは、二つの溶けない雪の結晶だった。
「何の訳にも立たないが、話のネタにはなるだろう。副都心にも渡しておけ」
「……知ってる、溶けない雪だろう? 実は、オレも」
涌き上がる笑みは、苦笑か否か。
それすらもよく解らないまま、有楽町は自分が用意していた袋を池袋へと差し出した。
「雪のクセして、水に溶けないで浮かぶんだよな」
自分が買ったのと全く同じ物を手渡されて、池袋は口元に少しだけ苦笑じみた笑みを浮かべる。
「だが、火を灯せば溶けるだろう?」
――― 水には溶けないくせに、火には。
「なら、火を点ければいいのか?」
ぽつりと呟いた有楽町へ、池袋は怪訝そうな言葉を返した。
「……何だ?」
「何でもないよ」
雪の結晶のように脆い彼の心は、火を点ければ解けるのか?
言葉にしない有楽町の問いは、水に解かすまでもなく心の中で揺らいで消えた。
the END
☆
The first up_date 2009.06.07
西武有楽町が何処か思い詰めたような表情で、自身の車両を見送っていた副都心の元へと駆け寄ってきた。
珍しいことがあるものだ、と内心驚きながらも、副都心は小さな相手のために身を屈めて目線を合わせる。
以前、池袋に忠告されて以降、副都心自身でも意外と素直にそれを守っていた。
確かにそうすることで、この西武有楽町の自分への態度は随分と軟化しているようには思える。
――― 何事も「先輩」たちの言葉は謙虚に受け止めよ、ということか。
どうも自分のキャラではないとは思っているのだが、致し方あるまい。
「副都心、ホワイトデーって何だ?」
「は?」
挨拶もそこそこに、西武有楽町は真剣な表情で自分を同じ目線の高さの副都心を見た。
そう言われてみれば、バレンタインデーのこともろくに知らなかった西武有楽町だ。ホワイトデーを知っているはずがない。だが、彼ならばまず自分よりも有楽町の方へ問い掛けるような気がするのだが。
「先輩には聞かなかったんですか?」
「聞いたんだが、ホワイトデーといった途端に、困ったような顔をしてまともな返事をしないんだ」
なるほど、ホワイトデーのことを聞かれて、バレンタインデーのお返しを考えたのだろう。
西武有楽町のついでとしてとはいえ、池袋手作りのチョコレートケーキを貰ったのだからそれなりの返杯を考えこむその気持ちは解らなくも、ない。
「ホワイトデーはバレンタインデーのお返しをする日ですよ。正確には好きです、とチョコレートを貰ったその返事、ですね。自分も好きです、という意思表示をするんです」
「じゃあ、わたしもしないとならないな!」
嬉しさ半分、困惑半分と言ったところだろう。池袋に大好きという意思表示をするのはともかく、お返しとなるとそれなりに先立つものが必要になる。
西武有楽町がそれなりの軍資金を調達できるはずもないし、度を超したものでは逆に池袋を怒らせてしまうかも知れない。
「ありがとうという気持ちだけで、池袋さんには充分だと思いますよ?」
「だけど……」
どうも納得できないらしい。
それは目に見えて浮ついた有楽町を目の前にしたら当然か。
副都心としても、その辺りの心情は人ごとではない。
――― ならば。
「西武有楽町さん、僕でよろしかったら多少はお手伝いできるかと思いますが?」
思いも寄らなかった申し出だったのか、西武有楽町は一瞬、驚いたように大きな瞳を瞬いた。
だが、思い切ったように副都心の目の前に人差し指を突きつけ、きっぱりと言い放つ。
「手伝いたいなら、手伝わせてやってもいいぞ!」
「じゃあ、お願いします」
思わず、笑みで応じた自分自身に、副都心は内心苦笑した。
――― 手伝うことになったものの、さて、どうしようか。
メトロの休憩室で目に見えて上の空でコーヒーカップを弄んでいる有楽町を横目に、副都心は腕を組んで考え込んだ。
金を掛けたプレゼントは論外だ。そもそも西武有楽町の陰に隠れて有楽町は元より、池袋まで驚かせようとするならば、それなりの趣向を凝らさなければ面白くはない。
どうせ相手はこちらの意図などには気付かないのだ。
プレゼントという形だけで終わらせるのではなく、もっと何か。
所詮、毎年繰り返されるイベントごとでしかない。大した意味や興味など持たないならいっそ、しばらく忘れることが出来ないぐらいに。
――― 感謝と言うより半ば嫌がらせの領域だ、と、副都心は自分の思いつきに忍び笑いを浮かべた。
まあ、それぐらいは構わないだろう。
どんな甘い意味だろうと、どんな嫌がらせだろうと、相手が自分を見てくれない以上は、何をしても意味などないのだから。
「池袋さん、お疲れ様です!」
いつになく明るい副都心の呼びかけに、池袋はあからさまに怪訝そうな表情で振り返った。
そこまで解りやすい表情をされてしまうと、副都心としても期待に応えたくなるというものだ。
3月14日。ホワイトデー。
一ヶ月前と同じく、彼の注意はデパートの方に向いていたようだ。
バレンタインデーの行動が池袋にとってさほどの意味を持たないからこそ、今日という日にも自分自身が関与しているという自覚がない。
それとも、西武有楽町には何か用意をしているのだろうか。
「何だ、こんな時間にうろうろと……」
「休憩ぐらい入れたっていいじゃないですか」
黙っていたらいつまでも続きそうな苦言を遮って、副都心は池袋の目の前まで近寄った。
勿論、両手は自分の背後に隠したまま。
「ならば勝手に休憩すればいいだろう。何も私に声を掛けることなど……」
「今日は何の日だかご存じですか?」
「……ホワイトデー、だな」
それを認識しておきながら、自分は関与しないと言わんばかりのその態度。やはり彼は世間と若干のずれがあるようだ。
「はい。ですので、先日のお返しを、と思いまして」
「……あれは西武有楽町へのついでだが?」
「解ってます。だから、これはほんの気持ちばかりです」
そう言って、副都心は池袋の目の前に隠していたソフトクリームを差し出した。
「……何だ、これは」
「見て解りませんか? アイスクリームです」
「それは解る。私が聞きたいのは、何故この寒空にアイスクリームを、それも両手分も?」
「まあまあ、受け取ってください。感謝の気持ちですから」
強引に手渡されながらも、池袋が断り切れないのは「感謝」という魔法の言葉のお陰だろう。
「あ、早く食べないと溶けてしまいますよ」
「だから、この寒いのに二つも食べきれるかと……」
「……おや、せっかくあなたのために西武有楽町さんが買ってきたのに?」
副都心のその言葉に、池袋は言いかけた文句を飲み込んだ。
西武有楽町の名前を出されてはそう簡単に反論できない。解ってるからこそ、副都心はその名を告げるのだ。
「足りないかも知れないと、先ほど買いに行きましたからそろそろ戻られますよ」
「……副都心、貴様、西武有楽町に何か間違ったことを吹き込んでないか?」
「いいえ。ホワイトデーはお返しをする日だとお教えしましたが、それだけですよ」
勿論、アイスクリームを選ぶように示唆したのは副都心なのだが。
ホワイトデートもあってデパートは客で混雑している。冬だというのにデパート内部は空調のお陰もあって、暑いぐらいだろう。そのデパートに気を配っている池袋もきっと大変に違いない……など。
多少の理論の破綻など、西武有楽町には解るまい。
何より池袋に対して、プレゼントが出来るということ自体が嬉しいのだから。
さすがに怪しいと思っているらしい池袋は、不意に聞こえてきたぱたぱたという足音に慌てた様子で振り返った。
やってきたのはアイスクリームを両手に持った西武有楽町、そしてその後ろには有楽町の姿も見える。
「池袋!」
「走るな、両手に持っていたら危ないだろう」
笑顔満面の西武有楽町に、池袋も苦言を呈することを諦めたようだ。
「……池袋、これ、バレンタインデーのお返しです」
「ああ、ありがとう。だが、私は先に副都心から渡されてる分で充分だ。これ以上は食べきれない。それはお前が食べていいぞ」
先に持っていた二つのアイスクリームを片手に持ち直し、池袋は西武有楽町から片方だけ受け取ってそう言った。
両手に持っている池袋を見て、西武有楽町は一瞬だけ躊躇したものの、次の瞬間、嬉しそうに頷いた。
やはりそれなりに甘いものは好きなのだろう。池袋のために買ってきたものの、自分が食べていいと言われ、嬉しかったようだ。
どうやら有楽町は西武有楽町がアイスクリームを両手に急いでいるのが気になって付いてきたらしい。どうやら副都心が一枚噛んでいると悟った様子で、アイスクリームを食べ始めた西武有楽町へ問い掛けた。
「ホワイトデーに何を上げるものだと教わったんだ?」
すると、意外にも西武有楽町は軽く顔を背けるようにして言い放った。
「……内緒だ。有楽町は教えてくれなかったからな!」
どうやらちょっとした意趣返しらしいが、さすがにこれには有楽町もショックを受けたらしい。確かに、副都心は内緒にしておいて欲しいとは言ったのだが。
「――― お前、何か間違ったこと教えてないだろうな?」
先ほどの池袋と同じ質問をする有楽町に、副都心は肩を竦めて見せた。
「内緒ですよ」
ここは自分との秘密を守ってくれた小さな先輩に準じるとしよう。
「どうせ、妙な小細工をしたんだろう。責任を持って手伝え」
すでにべたべたに溶け出したアイスクリームを差し出した池袋へ、副都心は笑顔で頷いた。
「仰せのままに」
「……連帯責任で貴様もだ」
「まだ寒空が広がる季節だって言うのに」
当たり前のように池袋がアイスクリームを突きつけると、有楽町は軽い溜息混じりでそれを受け取った。
真っ白いバニラアイスクリームは溶けてなお、甘く。
まるで嫌がらせのように彼の記憶に残ればいい。
軽く受け流されるただのイベントではなく。
薄い笑みを浮かべながら、副都心はアイスクリームに口を付けた。
the END? →「メルティン・メロウ・スノウキャンドル」
☆
The first up_date 2009.06.07
01
二月のある日、夕方のラッシュ前に一息入れようと、有楽町は近くにいた西武有楽町に声を掛けてメトロの休憩室へと向かった。
一息入れると言っても、さほど大きくもない休憩室だ。せいぜい飲み物ぐらいしか用意出来ないのだが。
勿論、有楽町や副都心が持ち込んだインスタントコーヒーぐらいは置いてあるが、西武有楽町に飲ませる気にはなれない。
西武池袋がその辺りに気を使っているのを見たことがあるせいだろう。
いつもなら牛乳やココアなどを振る舞う所だったが、有楽町は先日購入した紅茶のティーパックを開けてみることにした。
予めカフェインを抜いてあるというので、西武有楽町にも大丈夫だろうと思って買っておいたものだ。
すると、どうやら西武の方でも紅茶の類をあまり飲ませていなかったのか、紅茶を差し出した有楽町を西武有楽町は少し困ったように見た。
「紅茶って飲まない?」
「少しならいいが、あまりたくさんは飲んではいけないと池袋に言われている。わたしには……ええと、かふぇいんが強すぎるって」
「大丈夫、それ、カフェインを抜いてあるヤツだから。もし池袋に怒られそうになったらオレがそう言ってたって」
有楽町がそう言うと、西武有楽町は両手でティーカップを持ち、嬉しそうに微笑んだ。
……少しだけ大人になったような気分、というところだろうか。
何かお菓子でもあれば良かったのだけど。
有楽町がそう思ったとき、小脇に小冊子を抱えた副都心が休憩室のドアを開けて入ってきた。
「あれ、お疲れ様です。お二人とも休憩ですか?」
「ああ、夕方のラッシュが始まる前にな」
有楽町の言葉に頷きながら、副都心はカップを傾ける西武有楽町を見て、何かを捜すように部屋の中へと視線を巡らせる。
「……お茶菓子でも買ってきましょうか?」
これは気が利いているのか、それとも自分が食べたいだけか。
その辺りの判断は微妙だが、悪い心がけではないだろう。だが、それに答えたのは有楽町ではなく西武有楽町の方だ。
「仕事中だぞ。私用でうろうろするな」
その物言いは池袋にとてもよく似ていて、思わず有楽町と副都心は顔を見合わせて、こっそりと肩を竦める。
「……それじゃ、せめて食べたような気分になるだけでも」
そう言って副都心がテーブルの上に広げたのは、メトロの構内に設置されている沿線情報をまとめた小冊子だった。
乗り入れているとはいえ、日頃あまり縁のない場所ばかりだろう。興味津々と言った様子で覗き込んだ西武有楽町は、少しだけ不思議そうな表情で呟いた。
「……これはどれが美味しいんだ?」
副都心が開いて置いたのは特集ページ。時期柄、チョコレートの情報が誌面狭しと並んでいる。
池袋もそうだが、新宿や渋谷、銀座界隈などもこの時期の「チョコレート戦争」に関しては感謝しないわけにはいかないだろう。
「人の好みにも寄るけど、オレはトリュフとかよりはこっちかな……」
高級そうなブランド名が掲げられているトリュフ類の中、西武有楽町の正面に座った有楽町は少しだけ毛色の違ったものを指さした。
「ケーキか?」
「ええと、正確にはガトーガナッシュ……って言うらしいね。まあ、ケーキみたいなものだと思うけど」
「甘いのか?」
「まあ、チョコレートだからね。店によって違うと思うけど、オレはあまり甘くない方がいいなぁ」
「さすがにこの時期はチョコレートばかりですよね」
自分でコーヒーを淹れてきた副都心が、西武有楽町の背後から覗き込むようにしてそう口を挟んだ。
「時期が問題なのか?」
興味深そうに西武有楽町が問い掛けると、副都心は少しだけどう答えたものかと、思案するように首を傾げる。
「2月14日はバレンタインデーといって、好きな人にチョコレートをあげる日なんです」
「好きな人?」
オウム返しに呟いた西武有楽町だったが、その視線は誌面の上に注がれたまま。
どうやら、副都心の言葉を少し曲解したらしい。
それは何となく解ったのだが、真剣な眼差しでチョコレートの写真を見つめている西武有楽町へ、有楽町は言葉を掛けるのを躊躇した。
――― これはやっぱり、あげようと思っているんだろうなぁ。
一番、大切な人に。
単純に、大好きな相手への気持ち。
何よりも、とても純粋な。
この時期、下心を抱えて大騒ぎをする大多数の人間とは違う。
だからこそ、有楽町は下手な口出しをすることを躊躇ってしまうのだが。
やがて、西武有楽町は思い切ったように自分の背後にいる副都心へ振り返って問い掛けた。
「副都心、これ、持ち帰ってもいいか?」
「ええ、どうぞ。メトロ構内にはまたたくさんありますから」
西武有楽町が辿り着いた決断に気付いたのか、副都心はにこやかにそう頷き言葉を継いだ。
「でも、池袋さんには見つからないようにした方がいいですよ」
「え?」
「ばれてしまっては面白く無いですからね」
自分が何をしようとしているのか、副都心が気付いていたことを悟ったのだろう。
西武有楽町は少しだけ頬を染めて、言葉を探すかのように俯いた。
「よろしければ、買い物にもお付き合いしますよ。こういうものを売っている店はいっぱいありますからね、少しはアドバイスできるかと思いますし。……僕もちょっと買ってみようかな、とか思ってましたし」
「副都心?」
思いも寄らぬ副都心の言葉に、有楽町は呆れたように後輩を見る。
「あれ、先輩知りませんか? 今年は逆チョコってヤツが流行っているようですよ。あ、心配なさらないでも、先輩へのチョコじゃありませんから大丈夫です」
いつものあの何か企んでいそうな笑みで応じた後輩へ、有楽町は派手な溜息を付いた。
そんなことは言われないでも想像が付く。勿論、誰へ宛てるチョコレートなのかも、だ。
「……オレも行くよ、西武有楽町」
二人のやりとりの意味など解らないだろう西武有楽町は、少し照れたように俯きながらぽつりと呟く。
「……別にわたしが食べたい訳じゃないぞ」
この際、副都心の思惑は二の次だ。有楽町は小さな頭を撫でてやりながら笑いかけた。
「うん、解ってるよ。池袋へ感謝を込めたチョコを捜そうな」
02
「――― お、なんだそれ?」
西武秩父が西武宿舎のリビングへ顔を出すと、池袋が一人で椅子に座っていた。
池袋がテーブルの上で広げている冊子をのぞき込み、秩父はそう問い掛ける。
「さっき西武有楽町が眠そうにしていたので部屋で寝かせてきたのだが、これを忘れていってな……」
それはメトロ沿線に置かれている冊子だった。
もちろん池袋も見覚えはあるのだろうが、改めて見たことはないらしい。
ぱらりとめくり、少しだけ困ったような表情を浮かべて見せる。
「何? 面白い記事でも載ってるのか?」
池袋が止めた指先を見ると、目印のように折り曲げてあるページにはこの時期ならではの特集が展開されていた。
「チョコレートか。確かにシーズンだからな」
「食べたいのだろうか? 確かにあまりこういうものを食べさせてはいないけれど。チョコレートもそれなりの刺激物だから……」
子供だから甘いものが好きなのは仕方がない、と秩父は思う。
だからといって、池袋は好きなだけ与えるでもなく、完全に排除させるでもなく、ほどほどに西武有楽町に与えているように見えるのだが。
考え込む池袋の姿が子育てに悩む親を彷彿とさせ、秩父は忍び笑いを押し殺した。
「まあ、興味半分ってとこじゃないか? 印付けてあるってことは、気になってるのはコレ、だろ?」
そう言いながら秩父が指さしたのは、多くのトリュフが紹介されている中で一つだけ異彩を放っているチョコレートケーキだった。
そこにマジックで丸印が書き込まれている。
正確に言うならば「ガトーガナッシュ」らしい。
そんな菓子の正確な分類に、秩父は興味などないのだが。
肝心なのはただ一つ。美味いか、否か。それだけだ。
「トリュフとかって見た目じゃよく解らないけど、ガトーガナッシュってケーキみたいだよな。だから気になるんじゃないのか?」
「……メトロの悪影響か」
困った表情を消しきれないまま呟いた池袋へ、秩父は仕方がないなぁと苦笑した。
「お前んとこだって、盛り上がってるじゃないか。このシーズンは稼ぎ時だろ?」
個人的にどう思おうとも、バレンタインデーはデパートとしては外しきれないイベントだ。否定出来ない池袋の言葉を待たずに、秩父は言葉を継ぐ。
「あ、俺は甘くていいぞ。西武有楽町と同じで大丈夫だ」
「……お前の好みなど聞いてどうする」
「今更だよな。で、何か用意するものがあれば、買い出しぐらい行ってくるけど?」
笑顔満面の秩父に、池袋はあからさまに溜息を付いた。
03
「――― よお、有楽町」
いつもと同じ時間に休憩を取ろうとした有楽町は、掛けられた声に驚いて振り返った。
「西武秩父? どうかしたのか、こんなところまで」
「どうしたも、そろそろお茶の時間かと思ってな。……コーヒーでも出さないか?」
「それは構わないけど……お前がメトロの休憩室にまで足を伸ばすなんて珍しいじゃないか。――― まさか、池袋が何か?」
秩父は池袋と一緒に行動することも多いので、有楽町と顔を合わすことも少なくはない。だが、用事もないのにこんなところに来るはずがないだろう。
そもそも今日は池袋の姿をほとんど見ていない。それが有楽町には気がかりだった。
しかし「今日」は仕方がないことだろう……とも思っていたのだが。
「アイツに何かあったら、俺がこんなにのんびりしているわけがないだろ? ほら、西武有楽町に手みやげ持ってきたから、ついでに休憩にしようぜ」
何やら紙袋を片手ににこやかな笑みを浮かべる秩父を不自然に思いながらも、有楽町はとりあえず頷いた。
秩父に西武有楽町を呼びに行かせ、有楽町は休憩室でコーヒーと西武有楽町用の紅茶の準備をしていると、呼びもしない副都心が顔を覗かせる。
そもそも休憩を入れる時間など、毎日そう変わるものではないのだが。
「あれ、池袋さんでも来ましたか?」
副都心は少しだけ意外そうに声を掛けてきた。テーブルの上に置かれたカップの数で、いつもより一人多いのに気付いたのだろう。
「いや、秩父が。手みやげ持ってきたから、お茶にしようって……」
「……秩父、どうかしたのか?」
先ほどの有楽町と同じような疑問の声を上げた西武有楽町の背を押して、秩父が休憩室へと入ってきた。
「お、副都心も来たか」
「お疲れ様です。秩父さんが一人でここまで来るなんて珍しいですね。池袋さんはどうされたんですか?」
副都心の挨拶を聞き流し、秩父は満面の笑顔で手にしていた紙袋をテーブルの上に置く。
中から取りだしたのは、何のラッピングもされていないケーキボックスだ。
「……何、それ」
「言ったろ、西武有楽町への手みやげだって」
有楽町の言葉に秩父がケーキボックスを開けると、そこには紙製のカップに収まったケーキが四つ入っていた。
デパ地下で売られているようなテンプレートな美しさはないが、充分に手作り感に溢れたチョコレートケーキ……恐らく、先日三人で見たガトーガナッシュだろう。
とはいえ、有楽町にはチョコレートケーキとガトーガナッシュの詳細な差は今ひとつ解ってはいないのだが。
「もしやと思いますが……これ、まさか」
「そう、そのもしや、の池袋の手作り」
どうリアクションを取るべきかと悩んだ様子の副都心の問い掛けに、秩父はにやりとした笑みで応じた。
「――― アイツ、ケーキなんか作れるの?」
「レシピさえあれば何でも作るぞ。まあ、無くなって最終的にはそれなりのものに仕立て上げることは出来るかもな。なにしろ、昔から絵に描いたような器用貧乏だったらしいからなぁ」
有楽町の言葉にも、秩父は飄々とした態度で言葉を返す。伝聞系なのは、秩父自身も西武の中では後発の路線だからだろう。
――― いや、池袋が器用であろうことは何となく、解るのだ。
いやいや、不器用でもそれはそれで、全然構わないのだけども。
ただ、あの池袋がケーキを作るというギャップがあまりにも予想外で。
どうにもこうにもリアクションを取れないでいる有楽町を置き去りに、秩父は話を続けた。
「本人もそういうのはわりと好きそうなんだけど、宿舎じゃ全部分担制にされてやらせて貰えないからな。昨日は久々に楽しんだんじゃないのかね」
そう言いながら、秩父は西武有楽町へとケーキボックスを差し出す。
「やらせて貰えないって?」
「ん? 拝島が日用雑務から池袋を外すべきだって言うんで、みんな賛同したって感じ?」
「――― 過保護ですね、相変わらず」
どう反応を返すべきか、一瞬躊躇した有楽町よりも先に、副都心がぼそりと応じた。
西武拝島は新宿系統なのだが、良く池袋と一緒にいる姿を見かける。
どうやら一番の昔なじみらしいという話なのだが、本線である池袋を差し置いた感があるのか気のせいだろうか?
一体、西武内での力関係はどうなっているのか。
有楽町としても、その辺は気になっていることなのだが……。
「そうか? 仕事の内容からして当然だろ? 何処かの地下鉄との接続抱えて、忙しいことこの上ないからな、池袋は」
忙しくさせている張本人である立場としては、意味ありげな笑みで応じる秩父に有楽町も副都心も返す言葉はない。
「それで、肝心の池袋さんはどうされたんですか?」
有楽町がコーヒーと紅茶をテーブルに置くと、副都心が話を切り替えるようにそう問い掛ける。だが、秩父は少しだけ視線を逸らした。
「さすがにこれを作ったってのは、それなりに自分のキャラじゃないって解ってるんじゃないのか? 俺はお茶時間に間に合うように、西武有楽町へこれを持ってきただけだからな」
「……確かに池袋さんがこれを作ったっていうのは、ものすごいギャップですけど」
今日に限って、池袋がチョコレートケーキを作ったなんて。
それも西武有楽町へ。
2月14日、バレンタインデーの、この日に。
きっと、池袋のことだから他意など全くないのだろう。
西武有楽町が池袋へチョコレートを贈ろうとしたのと同じこと。
それは解っているが、微妙に。
軽く笑い飛ばせない表情なのは有楽町だけでは無い。副都心も大差ないようだ。
「でも、西武有楽町の分にしちゃ多すぎだろ、これ」
「あ、俺の分もあるから」
「はあ?」
「俺も食べるって言って、ついでに作ってもらった。……だから、西武有楽町、半分にしような」
にっこりと笑って、秩父は西武有楽町へ箱の中からカップに収まったケーキを二つ取り出し、手渡す。
「絶対、わざとですよね」
溜息混じりの副都心の言葉に有楽町は反射的に頷いたのだが、ふと困った様子を見せている西武有楽町に気がついた。
池袋が作ってくれたケーキならば、嬉しいに決まっている。
だけど今日は……。
「ああ、池袋からチョコをもらうんじゃ逆だよなぁ」
「逆? 何だ、お前ら、池袋にチョコでも買ったのか?」
「西武有楽町があげたいって言うから、付き合ったんだけど」
正確には、西武有楽町一人の小遣いではなかなか厳しい実情だったため、有楽町と副都心が出資して、一応連名というところで落ち着いたのだ。
結局、用意したのは無難すぎるほどに無難なチョコレートの詰め合わせ。
あまり立派すぎれば何を買わせるんだ、と怒られるのは有楽町に決まっている。
それに、あまり日持ちがしないものでも困るだろう。そもそも池袋は甘いものは大丈夫かどうかすら、よく解らない。
まあ、西武有楽町からのものなら、問答無用に喜ぶに決まっているのだろうけれど……。
有楽町はテーブルの隅に置かれた紙袋を西武有楽町へと差し出した。
当日までは黙っていようと、この休憩室に置いておいたのだ。
「渡せばいいじゃないか。せっかく用意したんだから」
「でもなぁ……」
「わたしがあげて、池袋は喜んでくれるのか?」
有楽町から受け取ったチョコレートの包みを膝に乗せ、口籠もった有楽町を不安げに見た後、西武有楽町は隣に座る秩父を見上げる。
「お前のが一番嬉しいに決まってるだろう」
その言葉に安堵したのか、西武有楽町は目の前に置かれた池袋のケーキへと嬉しそうに手を伸ばした。
「秩父さんは性格が悪いですね」
「お前ほどじゃないよ」
カップの中に収まったケーキに食いつきながら、秩父は副都心の文句に楽しそうに笑って答える。
確かに、性格が悪いと言われても仕方があるまい。何も目の前にいる二人を無視して、四つあるケーキを西武有楽町と分け合わないでもいいだろうに。
そんな不服な思いを表に出さないように、手持ち無沙汰でコーヒーカップを傾けていた有楽町へ、西武有楽町は自分の手元にある二つのケーキの一つを差し出した。
「……有楽町、副都心と分けろ」
「え、でも、これは池袋が西武有楽町のために作ったものだろう?」
「わたしはあまり食べ過ぎちゃいけないと池袋に言われている。それに買い物に付き合ってくれた礼だ」
嬉しさと少しだけ残念そうな表情を隠しきれないで、西武有楽町はそう答えた。
――― その気持ちは嬉しいのだが、やはり今回は。
そう思って断ろうとした有楽町よりも先に、副都心が差し出されたケーキを受け取った。
「では、ありがたく頂きますね」
「……副都心、お前」
「せっかくの感謝のお気持ちですから。はい、先輩。半分どうぞ」
悪びれもなく、半分に割ったケーキのカップの方を差し出した副都心は、有楽町の返答を待たずに片手に残ったケーキを口にした。
「……」
不意に黙り込んでしまった後輩に、有楽町もケーキを口にする。
「――― これ、結構甘いけど……」
確かにこれは驚くだろう。何の誇張もなく、美味いのだ。
西武有楽町のために作ったというのだから、かなり甘めに作ってはあるのだろうが、それでも。
「――― 文句があるなら、食べないでも結構だ」
困惑にも似た思いでケーキを食べ進める有楽町の耳に、聞き慣れた声が掛かった。
04
「池袋?」
先ほど秩父は池袋が来ないと匂わせていたのだが。
気がつけば休憩室のドアを開けて、秩父か持っていたのと同じような紙袋を持った池袋本人が有楽町と副都心を憮然とした表情で見ている。
不思議に思って秩父を窺うと、悪戯を見つかったような笑みが返ってきた。
「池袋、ケーキごちそうさまでした!」
「ああ、気に入ってくれたか?」
西武有楽町の声に一瞬にして表情を切り替えて柔らかな声で応じ、池袋は彼の頭をそっと撫でた。
一瞬だけ、西武有楽町は考えた様子を見せたものの、思い切ったように膝の上に置いてあったチョコレートを差し出す。
「池袋、これ、今日はチョコレートを渡す日だと聞いて……」
さすがにそれは予期していなかったのだろう。池袋は驚いた様子を見せたが、すぐに納得したように柔らかく微笑んだ。
「……何だ、てっきりこういう菓子が食べたくてあんな本を持ち込んだと思ったのだが……そう言うことか。ありがとう、西武有楽町」
なるほど、池袋としては単純に西武有楽町が食べたいのだろうと思って作ってみたのだろう。
ネタをばらしてみれば、あまりにも彼らしいその理由に、有楽町は軽い笑みを浮かべた。
「……敵いませんね、お二人には」
「同感だ」
苦笑と共に小さく呟かれた副都心の言葉にも、嫌みの気配は感じられない。
「俺は敵うぞ」
そう割り込んできた秩父の手元には、カラになったケーキのカップが二つ。
「……ついでに作ってもらったヤツが二つも食ったのか」
自分でもレベルの低い発想だとは思うのだが、文句の一つでも言いたくなるのは仕方がないだろう。だが、そんな有楽町の考えを見抜いたように池袋の声が掛かった。
「そこで低次元な争いをするな。……ところで、秩父。お前、わざと置いていっただろう?」
「え?」
池袋はそう言いながら、秩父へと微かに非難めいた眼差しを向ける。
言われてみれば、最初から秩父は怪しげな態度を取っていたような気がする。
どうやら池袋がここに来たのと関係があるらしい。
有楽町のもの問い質したげな視線に気付いたのか、池袋は再び憮然とした表情で、手にしていた紙袋をテーブルの上に置いた。
「……材料が残ったから、ついでに作っただけだ。西武有楽町のと一緒に持って行けと言ったのに」
これは開けろという意味なんだろうな、と思いながら有楽町は紙袋の中から箱を取りだした。それは先ほど秩父が持ってきたのと、ほとんど同じものだ。
「ビターチョコと洋酒が入ってるから西武有楽町のと別にしただけだ。低次元な争いなどせず、大人しくそれでも食べていろ」
視線を逸らしながらそう言った池袋は、再び西武有楽町の元へと戻った。
――― なるほど、これは確かに照れているのだろう。
ついでとはいえ、それなりの労力を割いて作ってくれたものが、嬉しくないはずない。
「先輩ばかりずるいですよ」
「誰が一人で食えと言った。貴様ら二人で好きなように分けろ」
副都心の言葉にも、池袋は顔を逸らしたまま言葉だけを返す。
「……と、仰せですので、先輩。頂きましょう」
途端に笑顔を浮かべる副都心も副都心だが、残念に思う自分も自分だろう。
そんな自覚があるだけに、有楽町としても苦笑を浮かべることしかできない。
興味津々な眼差しを有楽町の手元に向ける西武有楽町へ、池袋は軽い溜息混じりに声を掛けた。
「あれはお前にはダメだ。……足りないのなら、さっきお前がくれたものを半分にしよう」
「え、でも」
「私と分けるのは嫌か?」
西武有楽町が嫌と言うはずがない。そんな微笑ましい構図を視界の隅に置きつつ、有楽町は副都心へとケーキのカップを手渡した。
「わざわざ別に作ってるんだから、何が入ってるか解ったモンじゃないなぁ」
悪戯げな笑みを浮かべて口出しをする秩父に、副都心はいつもの薄い笑みで応じる。
「本望じゃないですか。自分のために仕込んでくれるならば、毒だって」
いつもの毒舌にしては、さらりとすごいことを言ってのけた。
「……言うなぁ、お前」
さすがに秩父も返す言葉が見つからなかったらしい。今度は視線だけで有楽町へと問い掛けてきた。
――― お前はどうなの?と。
別に、宣言することでもない。
有楽町はケーキを口にしながら、声にせずに答えた。
――― 毒なんて、イマサラだ。
ビターだと池袋が言ったケーキは、確かに先ほどのものよりずっと大人向けだった。
甘さを抑えて、洋酒も効いてる。
なのに。
食べ終わった後に香るのは、先ほどのケーキよりもずっとずっと甘く。
溶けてなお、消えることのない甘い香り。
決して消えない、その香りこそが毒かも知れない。
the END? →「メルティン・メロウ・アイスクリーム」
☆
The first up_date 2009.06.07
